2015/02/04
ブログ
「思考」の前にある「前提」は何なのか。
昨晩、塾から帰る道中でラジオを聞いていると、
「みんな(そうだと思うけど)、仕事に行くのって、面倒くさいのが当たり前じゃないですか。」
と、若い男性グループの一人が言っていた。
「みんな」と言っていることも凄いが、そもそもそういう言葉を発することが当たり前のように言ってしまっていることが衝撃だ。
生徒の中でも勉強や宿題に対して、
「面倒くさい」
「つまらない」
などという者がいたりするが、このような言葉を発することは厳重に注意している。
このような言葉を発するということは、「仕事に行くこと」、「勉強をすること」、「宿題をすること」の意義を全く考えておらず、それをすることの前提が、「面倒くさい」になってしまっているのだ。
何のために仕事をするのか・・・例えば、労力の対価としてお金を頂くこと、人の役に立つこと、自分をレベルアップさせるための勉強として働くなど、そういった「前提」があって、「仕事に行く」が成立する。
何のために勉強をするのか・・・例えば、自分が将来やりたい仕事に就けるように、あの大学に行く、その為にはこの高校へ行くなど、「前提」があって「勉強する」が生きてくる。
どうせ同じ時間を過ごすのであれば、昨日の自分より今日の自分がレベルアップしていた方が良いと思わないだろうか。
「みんな(そうだと思うけど)、仕事に行くのって、面倒くさいのが当たり前じゃないですか。」
と、若い男性グループの一人が言っていた。
「みんな」と言っていることも凄いが、そもそもそういう言葉を発することが当たり前のように言ってしまっていることが衝撃だ。
生徒の中でも勉強や宿題に対して、
「面倒くさい」
「つまらない」
などという者がいたりするが、このような言葉を発することは厳重に注意している。
このような言葉を発するということは、「仕事に行くこと」、「勉強をすること」、「宿題をすること」の意義を全く考えておらず、それをすることの前提が、「面倒くさい」になってしまっているのだ。
何のために仕事をするのか・・・例えば、労力の対価としてお金を頂くこと、人の役に立つこと、自分をレベルアップさせるための勉強として働くなど、そういった「前提」があって、「仕事に行く」が成立する。
何のために勉強をするのか・・・例えば、自分が将来やりたい仕事に就けるように、あの大学に行く、その為にはこの高校へ行くなど、「前提」があって「勉強する」が生きてくる。
どうせ同じ時間を過ごすのであれば、昨日の自分より今日の自分がレベルアップしていた方が良いと思わないだろうか。